昭和44年02月18日 月例祭
どういう信心を持ってしなければ残らんか、また残ってもおかげにならないか。どういう信心を、お(せのせ)(2秒ぐらい途切れている。)信心。最近信心の確立ということが言われます。ね、少し信心の確立ということがなされなければ、ねぇ、その信心そのものを確立しとかなければ残す事は出来ません。ね、この家ならこの家を残そうと思うなら、この家を建てなければそれを残す事は出来ません。家だけは残しとかにゃならん、家だけは残しとかなきゃならんと思うても、家を持たずでは残されません。
ですからその信心の確立をお互いが目指さなければいけません。ね、信心の確立とはどう言う様な事を持って確立と言うのだろうかと。そういう事を一つ今日は聞いて頂きたい。今日朝の御祈念の後に皆さんもご承知のように、久留米の佐田さん達一家がお参りしてみえます。でお届けの時にあちらの若奥さんがお届けをされるのに、「先生昨日家ではこう言う様な事が御座いました」と、ほんとに感激してお届けされるんです。
ちょうどお食事の時でした。お父さんが皆一緒にご飯を頂いてた時に、こう言う事を言い出しましたて子供達に。それは子供達にでしたけれどもそれは私達にと、思われるお話じゃったと。子供達にどう言う事をそのお父さんが言われたかと言うと、これはもしもぞと万一それがもしもし万一そ、ね、私達がこの住んでおるこの地球がね、もう後一時間の後には二時間の後には、もう消えてなくなってしまうと没落してしまうと。
ついた火が消えるように一時間後に、二時間後に消えると言う様な事がもし、もしぞともしあったらお前達はどげなふうにするかっち言って、そのま子供達にま冗談のようにして本当の様にして話し掛けられたと。毎朝、朝の御祈念にもう寒修行からずっと、おかげ頂いとります一番下の恵介くん、小学校の一年生。一番口にこう言う事を言うたと。「僕は一時間後に地球がなくなると言う事を聞いたらね、一番口に僕は合楽に行く」ち。「そして光昭兄ちゃんにその事を話して、ご神前で一生懸命大祓いをあげながら、しまえていくだろう」ち言うた。
「光昭兄ちゃんにそのことを伝えて、光昭兄ちゃんと二人でここで一生懸命大祓いをあげる。一時間後にこの地球が没落する。世界中の人類がもうなくなってしまうと言う様な事が、もしあると言う事が一時間前に分かったら、僕はそうする」とこう言うとる。二番目の娘さんが、「私は自分の身の回りをまず整頓する」というふうに言うた。三番目の娘は、「恵介ちゃんが言った様に私もそうするだろう」と。
「もし間に合わなかったら、おそらく自分の家のご神前で、大祓いを一生懸命あげながらしまえていくだろう」て、一番上の姉ちゃんが申しました、とこう言う。これはもう、見事な信心の確立ですね。どうでしょうか。信心の確立ということ。これはもう恵介君がえ、朝参りを始めた。先日ももう眠たそうにしてから起きない。それからならあんたはあのう、今日はご無礼せんね、もう寝ときなさいたらその、眠いながらも起きてきてから、泣き出した。いやまいるというから泣き出した。
うんそれ前もそんなことがあった、ね、もう恵介ちゃんは、あんた冗談に、あんた寒修行が終わったら、もう止めるじゃろうと言ったら「僕は一生参る」「一生参るってんなんてんあんた、お嫁さんどんもろうたらどうすんね」と言ったら「嫁さんも一緒に参りゃ良かろうもん」て言うた。うん。ね。「僕は、おじいちゃんになる七十までは、どうでもお参りする」っち。
そういう一つの思い込みが、まず、私は信心の確立だと思うですね。それから、なら信心がです、ね、いわゆるほんとの信心になっていくために、何回か、また、お互いが脱皮に脱皮を重ねていかなければならんでしょう。教祖の神様が42歳のご大患。そして、お取り次ぎの座に奉唱されるようになり、ね、立教神伝が下がり、世の中に難儀な氏子があり、ね、取り次ぎ助けてやってくれと言う神の頼みがあった。ねぇ、
その中にはもう、おー家内も死んだと思うて、後家になったと思うて、神を助けてくれとこう仰った。あの立教神伝から、教祖の神様のご信心というものが一変した。ただ世の中の難儀な氏子が助かることさえできれば、というご誠心に基づいてのご信心が、歩まれた。ね、それからとても、教祖の神様のご信心のご内容というか、分からして頂けば頂くほどにです、いかに人間川手文治郎という方がなくなっていくかた、いかれることのために、ご修行なさったかということが感じられます。
一回も幾回も、言わば、それこそ生き変わり、死に変わり、ご自分というものを、虚しゅうしておいでられることのために、一生を捧げられた。ね、そこに今日こうして多くの、金光大神取り次ぎの働きによって、お互いが助けられる道が開けてまいりました。だから、取り次ぎ助けられるということはどういうことかと言うとです。私は信心の確立だと思うんですよ、やはり。ね、
お取り次ぎによってこのことがおかげを受けたと。ね、様々な難儀が、一つひとつおかげを受けたと。なるほど受けていくことも有り難いけれども、そのことによって信心が、いわゆる確立しなければならん。今日も久留米の岡崎さんが、朝の御祈念にお参りされたら、また後の一時間ばっかりしてから、お供え持ってからみえよります。あらもう帰ってきなさったですか、とこう言うたら、はい朝出てくるときにお店が開かっておりませんから、いっつも月次祭たんびに鯉のお供えをなさる方なんです。
今日はなにか、真剣な面持ちで、そのここでお届けをされるのにです「先生、これだけはお許しを頂きたい」それは月次祭ごと、いやここでお祭りごとの時にです、「この川のもののお供えだけは、私の一生涯お供えのおかげを頂きたい、これは続けさして頂きたい。このことをお許しを頂きたい。そのことを、どうぞ願いしてください」とこう言われる。私はそれけん申しました。「岡崎さん、そればい」ち私が申しました。で、
どんなに今よか信心のごたる、よか信心しよってもです、そのほんとに一生ということ、ね、私そこに私は今日、岡崎さんの信心の確立があったとこう思うのです。ね、もちろんその確立はね確立するね。それなら家を建てたら、それには調度品をお置かなければならない、または時々はそれをいろいろま塗り、塗りかえたい、ね、またはあそのう増えたら直してしていかなければならないようにですね。
またより良い大きな家を建てるためには、それを壊してまた次の家を建てていかねければならないようにです確立というのは、私はあのいっぺん確立しとけばそれで良いというものではないと思うね、その信心確立がですその信心の進展、信心のお育てを頂く成長に従って、それがおかげを受けていかなければならない。ね。今日四時の御祈念を終わらして頂きましたら、ちょうど久留米の矢次さん達が夫婦お届けに、お礼に出てきておりました。昨日一昨日があちらの謝恩祭でございました。でそのお礼にみえた。
ご親戚に行く通知をしてたのが一日間違えてから昨日みえた。それであちらのおばあちゃんのし式年祭でございましたもんですから、謝恩祭と式年祭を併せてでございました。そんなことで、昨日お礼に出てこれなかって、今日遅くなりましたけどれもと言うてお礼に出てきておるところへ、久留米の石井さんがお礼参拝してきた。石井清さん。そんで私終わって、まぁ、裏の方へおりなさいと言うて、あの、洋間でお茶でも頂かしてもらいながら、まぁいろいろお話さしておる時にです。
矢次さんが、こういうことを言われるのです。「先生、もう今度の謝恩祭は、もう今度の式年のお祭りもあるというのにです。これはもう、今年の最低のお祭りになろうごたると思いました。」とこう言うのです。最近、金銭の上に、非常に窮屈な思いをしよる。ね。手形から手形に追われて、ま、窮屈だとこう言うわけです。もうあのお祭りの頃が、一番きつい時じゃった。
けれどもこれだけはまあ借金してからでも、とは思いよりましたけれども、何とはなしに心が晴れ晴れとしない思いで、お祭りをのお届けに参りましたら丁度光昭先生が座っておられた。光昭のことなん・・・。ん座っておられました。はぁ親先生が座って頂いたら、このことをお願いしてからと思ってけれども、もう時間が時間だったから親先生はおられなかった。光昭が座っておってからお届けさして頂きましたっち言う。
そしたら先生、矢次さん腹を決める事ですよっていわっしゃった。腹さえ決まりゃおかげ頂きますち。ね、腹を決めんもう借金してからでも、さしてもらおうちゃ思いよるというではなくてですたい思いよるじゃない、それをかその思わそれを、ね、腹を決める事だと。もう先生私はもうこんな言葉は、どの位親先生から頂いとるか分からんのですけれどもです、こん時位おかげ頂いた事は御座いませんでしたち言う。
先生もうそれっきりもうすっきりとして、所謂度胸がすわった。おかげ頂いてまぁ相すまんお祭りじゃございましたけども、あの様にしておかげを頂いたとこう言うて、今日お礼を言うておられるんです。ね。言うならばですねおかげの確立とでも申しましょうかね。おかげがもう頂いたもおんな仕事の様な心が開けてくる。是はある意味合いに腹が決まったという事、そこから信に有り難いものが生まれてくる。
信に有り難いと思う心が、すぐにみかげの始まりである腹が決まらなければ、ね。私は、一生懸命修行をある意味でしているものの言葉って言うのは、一言一言決まると思うですね。最近それを非常に感ずるんです、光昭のお取り次ぎのよってから。今日もあのう朝の御祈念の後に、熊谷さんがお参りになりましてから先生、昨日は広大おかげ頂いてからと、一昨日は丁度私は矢次さん所のお祭りにおかげを頂く為に。
丁度もう五時に迎えに来ましたから、出かけよるところへ、あちらの長女の娘さんが、吉井の方で病院を開業しておられますが、そのあちらの娘さんが、あのう石井病院の奥さんが、あのうお届けにみえておった。それを私はもう庭に降り立っておるとこであったから、はぁ間に合うてでもお会いして良かったとこう思うたけれども、肝心要の息子が、ここで待ち合わせるようにしておったのが来ないて時間になっても。ねぇ、この方が今度大学受験を致しますんです。
どうでも、まぁ、母親のおばあちゃんから、もう日々お届けが会っておるけれども、まぁいよいよ間近になってまいりましてから、先日からもうお参りになり、今日は親子で二人でお参りさして頂こう。して何時にここで、ふんならお会いするばい。あんたは学校の方から、私は吉井の方からと言うて、ここで。ところがその待てどもくらせども来ない。それがその、後で聞いたところが、その久留米の方から吉井、田主丸か吉井行きっち書いちゃっけん乗ったところが、やまべ行きじゃったげな。
ほんで田主丸から降りてから、田主丸からまたこう、タクシーでもと戻ったけどもお金がない。ほいでまた、仕方がないから母親待たせておると思うて、まぁやっとみえて、ようやく、ま、あったと言うんです。はぁ、もう惜しかった、もう私は親先生と出がけに会うておかげ頂いたけれども、こん人がたまたま、たまたまというか、まぁ、何回か参られたことがありましょう。
けれども、こんな大事なお願いをさして頂かなければならんのに、親先生がおられんから心にちょっと寂しかった。けどもまぁ二人でこちらでへ出らして頂いたら、いわゆる光昭が奉仕しておった。それでそのことをお取り次ぎさせて頂きましたら、親先生もうほんとに、もう神様の、生神様の働きというのは、御結界にあっておるということ。金光大神の働きということは、もう光昭じゃない、誰彼じゃないて。
働きはそこにあってると、もう、お、まぁ感じたと、こう言われるのです。昨日その娘さんがやってみえて、昨日はおかげ頂きましたっち。親先生は出ちゃったけども、あちらの二番目の息子さんが座っておられた。そしてですね、その、私とその息子さん、(?まさふみ)さんち言われる、(?まさふみ)さんに光昭先生が言われることが、神様にお願いする、お願いすると言うても、ね、
勉強が八つです、後の二つが信心です、と言ったげな。私はそれを聞いて、私の方が感激しました。勉強が八つだて、ね、後の二つが神様のおかげだて。ね、ほんとを言うたら、その全部そのものがだけれどもです。ね、そこに私は、一つ言葉の魔術と言うかね、そういうものがあると思うんです。ね。もうほんとに、おばあちゃまの話聞きよる有り難いおかげが頂ける、有り難いおかげが頂けよる、おかげの話しばっかりじゃから、どうもその娘さんにも、お孫さんにもピンとこなかったけれどもです、ねぇ、
何と言うたって実力が第一なんだと。勉強だと。但し勉強は八つ、二つは神様だと。ね、そこにですね、例えばうんね、十人のうち言うなら二人落ちなければならない。その二人の中に、今度は上がるほうへ入ることができるわけなんです。そしたら帰ってからね、もうそれこそ親子の者が感激して帰ったそうです。そしてその孫が申しますことが僕は必ずこれから日曜日だけにはお参りするっちゅうて、その母親に言うたそうですと言うて今日おばあちゃまお届けされるんです。ねぇ。
もうこれなんかは、信心の確立がややできてきたんです。ね、これはならある意味合いでの、光昭の信心なんです。ね、自分も通ったことがあることですから、ま実感持って、それがお取り次ぎできたわけでございましょうけれどもです、確立しとらなければ、こう言うお取り次ぎはできない。ね。そこに、僕はこれからどげなことがあったっちゃ、日曜日だけにはお参りをする。
もうそこにですもう信心の確立がその方、その方なりにできたわけなんです。ね、おかげ頂くまでお参りしょうとか、ね、例えば、お参りさして頂きよる途中にです、今朝のご理解じゃないけれども、人の、言わば、あの物乞いやら物音を聞くようでは、神に一心は届かんと仰せられるが、私ども日々信心の稽古さして頂くという様々なことにぶつかる。人がぶら下がるようなことを言う。
生涯ない様なことを言う。迷わにゃおれんようなことを、言聞かしてくれる時にです、例えあ後ろから槍で刺突かれようともです、どの様な事があってもそれが耳に入るようなことで神に一心は届かんとこう言う。信心の確立というものは僕はこれからどげなことがあっても日曜だけはて、これが信心のもう初歩の確立なんです。ね、それから狂うてくるやら分からんのですよ。
そこでその確立というのはいつも、いつもって言うかその確立がなされていったらです、ね、それがいよいよ確固のものになっていかなければいけない。とにかく神様の心をですね、掴んで放さんといったようなものは、確立だと私は思うのです。ね。それは、にっけ、人間生身を持っておるのでございますから、内心(?まさふみ)さんこれからはとこう言うておられるけれども、そりゃ分かりませんよ。ね。
けれどもその、そん時に、これからはと母親に言うたという、日曜たんびには必ずどんなことがあってもとこう言うたという。ね、それが神様の心を掴んで、私は動かさないものだとこう思うのです。まぁおかげ頂くか、頂かんか分からんばってん、お願い、お願いしとくと、お願いしとこうと、おかげ頂くまでお参りしようと、いったふうなことじゃないでしょうが。
それがよし途中から消える様な事があるかもしれんけれども、その時だけは神様の心を掴んで放さないと言う様な、私は思い方信心の確立どんな事があっても、所謂恵介君じゃないけれども僕は一生参る。そういう私は一途なものがね、信心の稽古さして頂くうちにです、それがもっともっとよう垢抜けしてきた、真の信心が分からしてもろうて、その真の信心がほんとに確立できてから、そしてそこに絶対のもの、ね、
いわゆる絶対信が生まれてくる。天地の親神様の働きの絶対性を分からしてもろうてです、そういう信心でなからなければ、末の末まで教え伝えるということは、私はできないと思う。ね。今日は光昭のことばかりになってしまいましたけれども、これもでした四、五日前でした。ちょうど福岡の秋永先生が夜の御祈念に、お得意さんである方をお導きしてまいってまいりました。
ここではまぁゆっくりお取り次ぎできないから、先生が下がられてからと言うので、なら、コタツの間に参りましょうと言うて、コタツの間に、コタツに入ってお茶でも頂きながらお話聞かせてもらった。お話し半ばでした、もう十二時回りましたでしょうか、光昭がパジャマのまま入って来た。そして申しますこと、こんな夜中にどうもすいませんけども、私親先生が起きておられるようだから、ちょっとお礼に出て来なけりゃおれなかった、と前置きしてから申しますのです。
今日は修行生部屋でいっしょに末永さんと休んだと。ところがその、床をこう二つ並べてあった。ちょうど、あー善導寺の久保山ところの宅祭りがございますその日が、あの人が、一年間毛布一枚で休ませてもらう。もう枕もしなけりゃ、なんも無い。毛布一枚を体にちょっと巻いてから、ころっと休む。それがちょうど一年間が、終わったから、まぁ、お許し頂くまで、御礼のつもりで、また、修行を続けておった。
ところが、床がそこに二つとってございますもんですから、これはあのうもう光昭君、もうお許し頂いっとじゃろう、お許し頂いとっとばいと言うて、床ん中に休ませてもろうたと。休ませてもろうたらです、もうそれこそ、有り難うして有り難うして、なんか眠られんげな。とうとう、夜中に起きてきてから、ちょっとお礼を言わにゃおられん。枕をして休ませて頂くということが、布団を着て休むということが、こんなに有り難いということを体験しておると。ね。
とそのことをお届けにちょうど参りましたんです。ね、こういうなんかもねある意味での信心の確立ができなければ、言わばさっきの話じゃないけれども、腹を決めなければできるこっじゃありません。まいっちょ俺もやってみようかなのこっじゃとても続くもんじゃありません。ねぇ、腹を決めなければできません。光昭が高校の試験の時でございます。もう頭はもう私に似て至って悪いもんですから、久留米なんとか高校に受験するつもりであった。友達は皆そのつもりであった。
とりあえずあちらのところがね、そのことにお届けに参りましたら、あの今の昔の三井の学校ですよね三井高校ですかね。あの高校の上にですねそれこそ偉大な、あの八つ波のご紋章の入った旗がこう上に広げてあった。こりゃ光昭ちゃんあんたはそげな高校ってんな、あのうこうあのう工業学校てんなんてんと言う様な事じゃなくてね、これはあんた農業学校がええばい。と言うことでございましたが。
もう期せずして椛目の方達は、もうあん人の友達が六人か、七人こういますが、そんなら僕もと言うてから、皆光昭へ右へならえで、三井、三井高校に受けました。おかげで皆通りました。まぁ光昭もその中の、もうギリギリで通らして頂いたわけでございましたがです、それから後にあの高校の先生が家庭訪問にみえた時です。いわゆる頭が良いとけして言われんのです。できんわけです。
けれどもえらい事を言うとります、と言う様な意味のことを言われるんです。大体将来は宗教家にならなきゃならないはずの光昭君が、どうして高校をその選んだかということを作文に書いとった。ねぇ。教祖金光大神がお百姓の出や、泥の中から生まれたような方である。その教祖様その人のご信心を頂くためにはどろの味わい、ね、どろに親しむということが第一だと僕は思うたから、農学を選んだ。
もう頭が悪いけん農学を選んだんじゃなくて、そう言う風にまぁ書いとった訳なんです。それをその相手の先生が言われるんです。はぁ光昭君はそのねそう言う様な事で、あの三井の農学校をま選ばれたんですかと、あそのと言うてそのまぁ感心して話しておられますね、これなんかも私信心の確立だと思うんですね。例えば成程農業の出である所の、教祖の神様のご信心を頂く為には、やはり泥に親しまなければならないね、
だからもう一つ根本的なそこから一つ、ほんとに泥の様な信心を身に付ける事から始めようとそれはもう荒削りな、出来とる出来とらんという事は別としてです、そういう思いなのです問題は。ね、初歩から行こうと言う。ね、それは本気で信心を頂かして貰おう、ほんとに金光様のご信心を分からして貰おうという願いがなからなければ、出来る事じゃないのです。中途半端から、ね、知ったか振りして例えば、ね。
もうそげなん事言わんでも解っとるちゅう様な所から信心が出来たのではです、これは一つうかうかとした信心でありそれこそ、ね、修行が続くともうへこたれる。ね。思うようにならんともう信心がぐらつく。ちょっとどうか言われりゃもうそこから、所謂もの物乞いが聞こえて来る様になり、それこそ槍先でつかれるごとあったら、もうそれこそ飛び上がってそこを逃げ様とする様な事では、信心の確立とは言えない。
先程桜井先生が前講されたお話の中にねぇ、人間ほんとに有り難い。私その色々思うんですけれどもね、今年は一つこげな信心で行きたいあげな信心で行きたいと、それは銘々にあっていいんです。けれどもね是はなんと言うてもね、ここで今年例えばより明るくなりましょう、よりにこやかにという是は合楽のこの信心の焦点と言うのを、神様が下さってあるのであるから、私共がそこに焦点を合わせにゃいけませんよ。
どんな素晴らしい事を思い立ったとしても、でなかったら合楽的おかげになっていかないです。ね、その向こうに様々な信心があってよろしいのです。ね、一番正面に立てる所をなんと言うても、にこやかに又は明るくと言う所に焦点をおく事によってです、おかげを頂けると言う事は、もう桜井先生が仰っとられる様に、どうしても心が明るくなれない、明るくなろうとも思えない、あうん明るくなれない所にです、ね、祈りがる願いがある。明るくならして下さい、明るくならして下さい。
明るくならして下さい。その事が合楽に通ず、その事が神様に通うのである。ですからそういう具合にです、鏡見て自分のなら、顔色がですにこやかさを変えておるなら、どうぞ神様にこやかに、にこやかに。にこやかにさして下さいと、言って祈るところに、それは合楽に通う。その合楽に通うものが、神様に通わないはずがない。そこんところを、祈ろうとも願おうともせずにしておったんで、どんな良い信心が出来ても、私はこれは本当のこっじゃない。
合楽的信心の、今年の確立というのは、ここに焦点をおくことであると私は思うのです。その一生懸命に思うことそのものが、神様がお喜びくださることなんです。ね。明るくなりたい、にこやかでありたいと一生懸命祈っておるということが、神様のお喜びに私は、通うと思うのです。心に通うと思うのですね。そこから、私はそのにこやかさ、またその明るさを持って、願わしてもらう信心。
もちろん信心はそれが先。さまざまに、その人の信心の程度によって、変わってくるでしょうけれども、私どもの信心が、どこまで確立しておるだろうか。ながねん信心はしておるけれども、これと決まったことがない。これと定まったものがない。これだけはと言うて、貫かしてもらいよるものがない。これでは、まだ信心の確立は、できていないということになる。ね。
今日ある方が、朝のお届けの後にお届けをされますのに、もう四十年間から金光様のご信心をしておる人と、お付き合いをしておる。先月もあることがあって、お手伝いに行った。ところがですね、もう四十年、それこそご本部参拝はもう絶対欠かせません。もういの一番に申し込まれる。ご主人という方も、もう大変熱心じゃったけども、今、盲目になっておられて、ところが、毎晩毎晩ねその金光さまの神様が出てきてから、背中ば叩きなさるそうです。ね。
それやらもう寝たら、もう四足の夢ばーかり見るっち言うね。それであなたが合楽にお参りしよんなら、合楽の信者さん達の聞かしてもらうて、お、どういうわけにこういうことになるのか、お伺いしてくれと言うて、そのお願いがあったというて、お願いされるのですね。それが例えばうんなら、確かにこう、立派にお祭りはしてありますけれどもね、とにかくもう、ご神飯ちゃなんかこう皿んごたっとにこう、ちょっとつい、ついでこう、あげ、あげらっしゃるです。
そらもうしてもうあそこんなん、いつも行っても拝みござると見たことがない。晩休む時だけ、それも、もう、こう、あの寝巻に変えてしもうてから、ぽんぽんとしてから、ちょいとこうお辞儀さしとるだけ。それで教会に行ったら、もうよか信者。もうそれこそ、ご本部参拝で欠かすことのないちいうごたる信心、しかも四十年間続いておる。もうその人のされることの、もう汚さ汚さ。
もう反吐の出るような話を聞いとって。俺もまずそれを感ずると言うて話されるんですよ。金光様のご信心頂いて、これじゃもうこれだけで盲くらに成る筈ぜっちこう言って、ねぇ。けれどもですね、金光様のご信心する者はもう、本当に言うならば巡りが深い者、なら誰よりも欲が深い者、まぁ言うならね。ですからね、そのままではです、ほんとに、あの人は信心しござるけん、と言う様なおかげになってこないて。ね。
あの人は信心しござる、そういう私どもではあるけれども、信心によってね、ほんとの信心の確立がなされる時です、そこに例えば二人見るような人間にならして頂くことができる。信心の確立ができていないからそれなんです。ですから私、ここでは、皆さんに信心が始ると、さぁあんたは金光様、昔の先生方はどういうもんだったでしょうかね。お参りをすると、もうすぐその、御本部参拝したらお社を進めて、お社買わせられてから、どこでん、いきなり祭らせなさったですね。
ですからもう、ちょいと金光様の信心すりゃもう、すぐこうお祭りをすると。私はもう、絶対それを申しもしませんが、またあの、願い出ましても、あの、まだ早いというような意味のこと頂くとはいくらでもあります。それはどういうことかと言うと、信心の確立がなされてからでなからなければ、神様はお前んとこには行かんと仰るような感じがするんです。そうでしょうが、信心の確立もない家には、神様が行きなさったっちゃ、粗末に扱われなさるです。
拝んでくれてもなか。ご神飯な、人間に出すとやら神様に上げるとやら分からんごたるような、例えば、神様の奉祭の仕方のようなことではです、私は信心のある意味合いにおいての確立ができなければ、お祭りすることすら進めもしません、また言いもしません。皆さんどうぞ、うちにお祭りでんしとらん方は、まーだ確立のできとらんけん許されんとと思わにゃいかんです。ね。
と言うて、なら奉っとるけんよかっちゅわけ、確立しとるっちゅうわけでもないですけれどもです、ね。私はまぁ余談ですけどもね、そのこと神様にお願いさして頂きよりましたら、そのめくらさんになっておられる方の、ねぇ、あの世にはね、神様の世界もありゃ、人間の世界もありゃ、言わば、畜生道という世界もある。四足ばっかりの御霊様に行く世界もあるち。
もう畜生とおんなじようなですね、にん、そりゃ人間の我情我欲を持っておりますということだけは、他の動物と一つも変わりはないのです。ね、けども人間には、良心というものがあって、それを押さえたりしなかったら、するところに、人間の値打ちがあるのです。信心をさして頂いて、我情が取れていくことを、欲がなくなっていくことを楽しみに信心さしてもらうからこそ、おかげを頂くのです。ね。
夢の中に出てくるものは、もうみんな、四足ばかり。そりゃこのままいったら、四足の仲間入りせなきゃならんと、さぁ本気で信心さして頂いて、この目だけれど心の目を開かして、ほんとに四十年も信心しよりゃ、神様も叩いてからでも、分からせようごたろうということ。もうあひ、あくる日はもう、肩が凝って肩が、たたかれなさる。もう体がきつうして応えんち、言いなさるそうです。
まぁそういう意味合いで、ある意味合いで霊徳に触れながらもです、ほんとの信心、ほんとのおかげを受けられ、ではそこへ行ってみて、これは金光様のご信者じゃろうかというような状態であるいうことは、ね、それは今日のご理解から言うと、信心の確立ができておらんから、という結果になるのでございます。ね、信心のある意味において確立ができて、そして神様の奉祭ができて、ね、
ほんとに神様の、いよいよ昨日、日吉長吉さんところで、今度新築されました。それで、お床の間に、いっぱいに、そのお神様を奉祭さして頂いて、昨日、青年会の方達、それから村内の方、それから若先生が、祭主奉仕つとめましてから、あちら奉祭式がございましたもん。それでまぁ若先生があちらで申しましたことがですたいね、そういうふうなことを申しましたち。
こうしてお祭りさして頂いたと、けれどもこれから日吉さん、あんたの信心いかんによって、この神様の値打ちが変わってくるとよ。先日秋山さんが、久保山の謝恩祭におかげ頂いてから、座った途端に思うたことは、こりゃうちあたりの神様とは格が違うと。これが一番初めの実感だった、てこう言うんです。ね。格が違うのだ。合楽の金光様とどこどこ教会の、同じ天地金乃神金光大神ではあっても、格が違うのだ。ね、
格が高いとか低いではない。低いかもしれん、ここの場合。ね、けれども、例えばあの、甘木の平田さんが、はじめてこのお広前にお引き寄せ頂いた時に、ここの神様は生きてござるち、これが一番口だっちゃ。ね。言うならば、格が違うと。ならそういう神様を頂いておりましても、そのご御礼を頂いてまいりましてもです、それから、そこのうちの主人の信心いかんによってです、私の信心、神様の格が変わってくる。ね、
そこにどうでも一つ、本気でのです、信心の確立がね、なされなければ、確立が願われなければならない。そこから、私は、確立してくるところのおかげ、動かないところのおかげ、頂いた。また落としたといったようなもんじゃなくて、ね、もういよいよこれが、あの世までも持ってゆけれるおかげにつながるおかげ、そういうおかげを頂いていかなければならない。今日は、信心の確立ということを申しましたでしたね。
どうぞ。